「住みたくても住めない」と「住めるのに放置」。3.11から15年、空き家問題に思う「日常」の責任
今日で東日本大震災から15年
あの日、テレビに映し出された
信じられん光景を
私は今でもはっきりと覚えてます
建物や車が次々と濁流に流され
一瞬にして日常が奪われていく様子
岡山におった自分ですら
画面越しに伝わってくる恐怖に体が震えた
今なお2,000人以上の方が
行方不明のままという現実に
胸が締め付けられる思いがする
アイアンマンレースを終えて帰国し
温かいご飯を食べて
家族と笑い
自分の家で眠る
そんな「当たり前」の日常が
実はどれほど脆く
そして尊いものか
「一日一日を丁寧に、後悔せんように生きよう」
とあらためて思った
でも、ふと周りを見渡してみると
別の意味で「日常」が止まってしもうた風景が
私たちの身近に増えとることに気づかされる
それが「空き家」の問題
最近、こんなニュースが目に留まった
震災で
「住みたくても住めなくなった家」
があった一方で
今は
「住めるのに放置され、朽ちていく家」
が急増しとる
家も人が住み、手入れをし、呼吸をさせとるうちは
「生きた場所」
じゃけど、放置された瞬間に
そこは負の遺産へと変わり始める
空き家が増える背景には
相続の難しさや
遠方に住んどるという事情もあるじゃろう
でも
「いつかやる」「普通ここまででええじゃろう」
という先延ばしが
結局は地域の課題という
「負の価値」
を生んでいる
自分が関わったモノ
守ってきた場所に対しても
最後まで責任を持つ
それが「大切」じゃないんかな
震災で失われた多くの日常に想いを馳せるとき
目の前にある家を
暮らしを
そして自分自身の人生を
いかに腐らせずに輝かせ続けるか
「予習」を欠かさず
起こることを楽しみ
身の回りの一つひとつを大切にする
15年目の今日
改めて強く感じた
日常に感謝
そして、今できることから、一歩ずつ
